続き読み講談★のこし隊

続き読み講談の決定版『祐天吉松』

解説+講談 祐天吉松

解説+講談 祐天吉松

『祐天吉松』解説(一)

この読物は江戸や甲州が舞台なので関東発のように思われているが、関西の講釈師が練り上げたものであると言える。二代目南陵の随筆『南陵随想』(昭和三八年九月『今橋ニュース』所載)に、正月から一ヶ月間、二代目南陵(当時は新米で南花)を前座で使ったのが大阪の講釈師・増田南北。五~六年地方廻りをしていたが、久方ぶりに戻って来て島町の講釈場(谷町筋へ出る手前にあった)に出たのである。が、南北は南花に給金をやらぬ。俺の講釈を聞けるのが給金だと。南花は癪にさわったが、南北が読む話の中に聞いた事もない面白いものがあった。それが『祐天吉松』だった。南花は給金代わりにひと月の間欠かさず聞いてすっかり覚え込んだ。

翌二月からひと月間は、神戸の仲道亭(湊川土手下)へ師匠の初代南陵と一緒の出番。南花は師匠に『祐天吉松』を教えると大喜びで、師弟で改めて三〇席に練り上げた。師匠は三月から早速この読物を高座にかけたが、大人気であった。南花は師匠から着物を新調してもらったという。

この年はコレラが大阪で流行ったので、夏に名古屋の福寿亭へ師弟で出る事になったと随想に記してあるのだが、『明治の演芸(六)』(倉田喜弘/国立劇場芸能調査室)の、明治二八年八月二〇日の項に「旭堂南陵は一昨晩より名古屋大須門前・福寿亭に於て興行しをるが、読物は『士農工商緑白浪』『浪花土産大塩平八郎』『成忠雪の曙』等なりと(扶桑新聞)」とある。

この『士農工商緑白浪』が『祐天吉松』である事は間違いのない所であろう。外題に『祐天吉松』と挙げる事は南北の手前もあって憚られたのかどうかは不明。

この読物は江戸や甲州が舞台なので関東発のように思われているが、関西の講釈師が練り上げたものであると言える。二代目南陵の随筆『南陵随想』(昭和三八年九月『今橋ニュース』所載)に、正月から一ヶ月間、二代目南陵(当時は新米で南花)を前座で使ったのが大阪の講釈師・増田南北。五~六年地方廻りをしていたが、久方ぶりに戻って来て島町の講釈場(谷町筋へ出る手前にあった)に出たのである。が、南北は南花に給金をやらぬ。俺の講釈を聞けるのが給金だと。南花は癪にさわったが、南北が読む話の中に聞いた事もない面白いものがあった。それが『祐天吉松』だった。南花は給金代わりにひと月の間欠かさず聞いてすっかり覚え込んだ。
翌二月からひと月間は、神戸の仲道亭(湊川土手下)へ師匠の初代南陵と一緒の出番。南花は師匠に『祐天吉松』を教えると大喜びで、師弟で改めて三〇席に練り上げた。師匠は三月から早速この読物を高座にかけたが、大人気であった。南花は師匠から着物を新調してもらったという。
この年はコレラが大阪で流行ったので、夏に名古屋の福寿亭へ師弟で出る事になったと随想に記してあるのだが、『明治の演芸(六)』(倉田喜弘/国立劇場芸能調査室)の、明治二八年八月二〇日の項に「旭堂南陵は一昨晩より名古屋大須門前・福寿亭に於て興行しをるが、読物は『士農工商緑白浪』『浪花土産大塩平八郎』『成忠雪の曙』等なりと(扶桑新聞)」とある。
この『士農工商緑白浪』が『祐天吉松』である事は間違いのない所であろう。外題に『祐天吉松』と挙げる事は南北の手前もあって憚られたのかどうかは不明。

祐天吉松を聴いてみる!

明治時代、二代目南陵と初代旭堂南陵や三代目神田伯竜が練りに練り、
二代目南陵が神戸新聞に156回連載した「祐天吉松」を
旭堂南海が現代風に味付けして16回(16時間)で続き読みました。

『祐天吉松』解説(二)

三代目南陵の『上方講談三代記』(昭和57年/夏の書房刊。中身は同30年代に二代目南陵が連載した随筆をほぼ借用している)では、九州を回っていた増田南北(明治中期の見立番付には前頭にその名があり、速記本も出してはいるが、来歴は不明)が、大阪へやってきたのは明治28年正月である。その時に南北が読んだのが『祐天吉松』。二代目南陵(当時は初代の弟子となり南花の名で前座)が給金代わりにすべて聞き取った(要点だけではなく、丸ごとだと記してある。恐らく、要点を聞いて書き出し、すぐに文章化したのであろう)上で、初代と二人で更に物語に工夫をこらしたという。故に、『祐天吉松』は大阪種で、旭堂が最初だと推定した。

しかし、増田南北の方が古いのは上記からも歴然だ。では、南北はどのようにして『祐天吉松』を作り上げたのであろうか。全く何もない所からとは考えにくい。下地があったに違い無い。考えられるのは、幕末の実在の博徒・祐天仙之助だ。彼の生涯に手がかりを得たと考えるのはそう無理な推量でもないと思う。講談速記本の『祐天仙之助』は明治28年6月には既に出版されている所から見れば、口演はそれ以前からであるとするのが妥当であろう。しかし、それでもまだ、物語の起伏に富んだ面白さの起源は不明である。

『祐天吉松』の続き読みをしていた時、お客様から一冊の本をご紹介戴いた。『五人小僧噂の白浪』(明治25年10月、東京大川屋発行)である。鉄骨散史の書く序文に「知友浮世亭苦楽稿を携へ来りて、余に告げて曰く。是は故人柳亭左楽が口演に懸りし五人白浪の傳なり。予幼時左楽が演ずるを聴き痛快夥数。思うに事は盗賊の一話抦と雖も、其言所、其説所、実に衆をして感動ならしめざるはなし。〈略〉予小説の流行に当って、此情話の能人情に適するを念ひ、自ら偶像を以て、而ふして此篇を補なふたり。〈略〉」

序文にある浮世亭苦楽という落語家の事は不勉強にして知らない。彼が鉄骨散史に序文を書くよう持参したのが『五人小僧噂の白浪』で、苦楽が小さい頃に聴いた柳亭左楽の口演によるものであると述べている。柳亭左楽は何代もいるが、明治の前半に亡くなったとされる二代目か、同22年没の三代目のどちらかであろう。苦楽が当時何歳であったか不明だが、子供の頃に聴いたとあるので、二代目の可能性もある。そうなれば、『五人小僧噂の白浪』は幕末頃にはもう成立し、高座に掛けられていたかも知れないのである。

前置きが長くなったが、『五人小僧噂の白浪』と『祐天吉松』がどのように関係するのか、以下簡単に記す。『五人小僧噂の白浪』の舞台は文化から文政にかけて。祐天吉之助・業平金五郎・大蛇六三郎・風窓忠治・鳴門大三郎が五人小僧で、白浪とあるから盗賊・博徒モノである。主役と言って良いのが祐天吉之助。元は経師屋の職人だったが、巾着切りに身を落とし、常磐屋の娘・お花の簪を抜き取る。すると、お花が下手人の吉之助に惚れて恋煩い。遂に、吉之助を入り婿にするというのが、物語の冒頭である。人名は違うが『祐天吉松』と筋は全く同じである。

吉之助は手癖が治らず盗みをし、吉原で馴染みになったお瀧に逃してもらい水戸へ行く。そこで祐天上人の彫り物を入れるのである。七年後に江戸へ帰ると、常磐屋は盗賊に襲われ義父母は殺され、お花と一人息子・吉太郎の所在は不明。吉之助は飛鳥山へ行くと土器売りの子供がいじめられている。助けて話を聴けば、一子吉太郎であったとなる。

立花金五郎が絡まぬ事、吉之助の手癖が悪いというのを除けば、『祐天吉松』の筋運びと実によく似ている。その後、駕籠で護送される仲間が宿場の旅籠屋に居る処を襲い助け出す場面、品川新宿の女郎屋の亭主となり気質の暮らしをする場面、江戸を追われて甲州へ身を寄せる場面など、『祐天吉松』に活用されたと思しきものが結構ある。

以上から、『祐天吉松』は、増田南北の手になる前から、落語の人情話(幕末明治初期には、落語の人情話は、講談の世話物にどんどん近づき、その差はもはや区別が付かぬ程であった)として高座に掛けられていたのであろう。大阪の落語家・五代目・翁家さん馬にも『祐天小僧吉之助』という速記本があるが、中身は『五人小僧噂の白浪』と全く同じであると言って良い。それを講談師が『祐天吉松』という外題にして講談化した。その先駆者(或いはその一人)が増田南北であり、彼の口演を更に整理増幅させたのが旭堂の初代と二代目南陵。そして更に、それを東京の神田伯龍が更に手を入れ、彼の十八番にしたと考えられる。

実は、私が手本にした神戸新聞連載の二代目の『祐天吉松』は明治43年のものである。神田伯龍は明治30年代前半には東京で『祐天吉松』を彼の代表作にしている。しかも、二代目はその頃、東京で修行をしている。乃ち、二代目は伯龍が改変・成長させた『祐天吉松』を大阪へ持ち帰ってきた可能性も大いにある訳だ。故に、新聞連載はどこまでが旭堂初代・二代目のモノであるかはよく吟味しなければならないという事になる。が、講談とは常に改変・成長していくものであるという鉄則通りであるとも言えよう。そして、今日、南海が結末を改変したのもその路線に則っての事である。私の筋立て、結末よりもオモシロイ筋に出来ると言う同業者が現れるとなれば、講談は活性化していくのである…。

三代目南陵の『上方講談三代記』(昭和57年/夏の書房刊。中身は同30年代に二代目南陵が連載した随筆をほぼ借用している)では、九州を回っていた増田南北(明治中期の見立番付には前頭にその名があり、速記本も出してはいるが、来歴は不明)が、大阪へやってきたのは明治28年正月である。その時に南北が読んだのが『祐天吉松』。二代目南陵(当時は初代の弟子となり南花の名で前座)が給金代わりにすべて聞き取った(要点だけではなく、丸ごとだと記してある。恐らく、要点を聞いて書き出し、すぐに文章化したのであろう)上で、初代と二人で更に物語に工夫をこらしたという。故に、『祐天吉松』は大阪種で、旭堂が最初だと推定した。
しかし、増田南北の方が古いのは上記からも歴然だ。では、南北はどのようにして『祐天吉松』を作り上げたのであろうか。全く何もない所からとは考えにくい。下地があったに違い無い。考えられるのは、幕末の実在の博徒・祐天仙之助だ。彼の生涯に手がかりを得たと考えるのはそう無理な推量でもないと思う。講談速記本の『祐天仙之助』は明治28年6月には既に出版されている所から見れば、口演はそれ以前からであるとするのが妥当であろう。しかし、それでもまだ、物語の起伏に富んだ面白さの起源は不明である。
『祐天吉松』の続き読みをしていた時、お客様から一冊の本をご紹介戴いた。『五人小僧噂の白浪』(明治25年10月、東京大川屋発行)である。鉄骨散史の書く序文に「知友浮世亭苦楽稿を携へ来りて、余に告げて曰く。是は故人柳亭左楽が口演に懸りし五人白浪の傳なり。予幼時左楽が演ずるを聴き痛快夥数。思うに事は盗賊の一話抦と雖も、其言所、其説所、実に衆をして感動ならしめざるはなし。〈略〉予小説の流行に当って、此情話の能人情に適するを念ひ、自ら偶像を以て、而ふして此篇を補なふたり。〈略〉」
序文にある浮世亭苦楽という落語家の事は不勉強にして知らない。彼が鉄骨散史に序文を書くよう持参したのが『五人小僧噂の白浪』で、苦楽が小さい頃に聴いた柳亭左楽の口演によるものであると述べている。柳亭左楽は何代もいるが、明治の前半に亡くなったとされる二代目か、同22年没の三代目のどちらかであろう。苦楽が当時何歳であったか不明だが、子供の頃に聴いたとあるので、二代目の可能性もある。そうなれば、『五人小僧噂の白浪』は幕末頃にはもう成立し、高座に掛けられていたかも知れないのである。
前置きが長くなったが、『五人小僧噂の白浪』と『祐天吉松』がどのように関係するのか、以下簡単に記す。『五人小僧噂の白浪』の舞台は文化から文政にかけて。祐天吉之助・業平金五郎・大蛇六三郎・風窓忠治・鳴門大三郎が五人小僧で、白浪とあるから盗賊・博徒モノである。主役と言って良いのが祐天吉之助。元は経師屋の職人だったが、巾着切りに身を落とし、常磐屋の娘・お花の簪を抜き取る。すると、お花が下手人の吉之助に惚れて恋煩い。遂に、吉之助を入り婿にするというのが、物語の冒頭である。人名は違うが『祐天吉松』と筋は全く同じである。
吉之助は手癖が治らず盗みをし、吉原で馴染みになったお瀧に逃してもらい水戸へ行く。そこで祐天上人の彫り物を入れるのである。七年後に江戸へ帰ると、常磐屋は盗賊に襲われ義父母は殺され、お花と一人息子・吉太郎の所在は不明。吉之助は飛鳥山へ行くと土器売りの子供がいじめられている。助けて話を聴けば、一子吉太郎であったとなる。
立花金五郎が絡まぬ事、吉之助の手癖が悪いというのを除けば、『祐天吉松』の筋運びと実によく似ている。その後、駕籠で護送される仲間が宿場の旅籠屋に居る処を襲い助け出す場面、品川新宿の女郎屋の亭主となり気質の暮らしをする場面、江戸を追われて甲州へ身を寄せる場面など、『祐天吉松』に活用されたと思しきものが結構ある。
以上から、『祐天吉松』は、増田南北の手になる前から、落語の人情話(幕末明治初期には、落語の人情話は、講談の世話物にどんどん近づき、その差はもはや区別が付かぬ程であった)として高座に掛けられていたのであろう。大阪の落語家・五代目・翁家さん馬にも『祐天小僧吉之助』という速記本があるが、中身は『五人小僧噂の白浪』と全く同じであると言って良い。それを講談師が『祐天吉松』という外題にして講談化した。その先駆者(或いはその一人)が増田南北であり、彼の口演を更に整理増幅させたのが旭堂の初代と二代目南陵。そして更に、それを東京の神田伯龍が更に手を入れ、彼の十八番にしたと考えられる。
実は、私が手本にした神戸新聞連載の二代目の『祐天吉松』は明治43年のものである。神田伯龍は明治30年代前半には東京で『祐天吉松』を彼の代表作にしている。しかも、二代目はその頃、東京で修行をしている。乃ち、二代目は伯龍が改変・成長させた『祐天吉松』を大阪へ持ち帰ってきた可能性も大いにある訳だ。故に、新聞連載はどこまでが旭堂初代・二代目のモノであるかはよく吟味しなければならないという事になる。が、講談とは常に改変・成長していくものであるという鉄則通りであるとも言えよう。そして、今日、南海が結末を改変したのもその路線に則っての事である。私の筋立て、結末よりもオモシロイ筋に出来ると言う同業者が現れるとなれば、講談は活性化していくのである…。

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