『講談・関ヶ原軍記 』
解説文/旭堂南海
今回、底本としたものを挙げよと言われると非常に困惑する。と言うのも、そもそも講談の『関ヶ原軍記』自体、そう多くの講談本が出版されてない。吉沢英明氏の労作『講談作品事典』を繙くと、放牛舎桃林(明治31年)と、大阪の神田伯龍が出した6冊本(明治36年~)が紹介されているだけである。私の師匠・3代目旭堂南陵も、抜き読みで『荒大名の茶の湯』『大谷刑部の最期』を口演していた程度。2代目南陵は、膨大な量の新聞連載や講談本を世に送り出したが、管見の限りでは『関ヶ原軍記』は無い(不勉強にしてどこかにあるのであれば是非拝読したいもの)。
以上、少ないながら記した先行作品を参考にした事は間違い無いのだが、そのいずれもが、石田三成が一人奸智にして私欲の為に引き起こしたのが関ヶ原合戦で、それを治め、天下を平定したのが徳川家康であるという筋に終始している。これでは幾ら講談であるとは言いながら、今のご時世では到底通用する筈もない。
講談は江戸時代に写本で出回った実録を元にしている場合が多いが、関ヶ原合戦も『慶長軍記』『関ヶ原軍記大成』『関ヶ原軍記大全』と時代が下がるにつれ増幅改変されてきた実録を元にしている。それらを見ると、実は三成は根っからの邪知者ではなく、豊臣の為に義を貫く姿も見せている。それが、講談には全く採用され無かったという事か。
神田伯龍の講談本の外題・角書は『講談・太閤記後日譚』となっている。秀吉の一代記である『太閤記』で、加藤清正、福島正則、池田輝政、細川忠興、黒田長政など、豪傑にして忠勇の士として描かれた大名達がこぞって、「関ヶ原」では家康に与し、豊臣に刃を向けるのだが、『太閤記』の続き物である「関ヶ原」で、彼等を悪者にする事など出来ない。必然的に三成一人を悪に仕立て上げねばならなかったのであろう。
以上のような点から、今回の底本はコレというものが無く、創作部分がかなりある。その辺りも想像しながらお聴き下さると幸いである。